今にも潰れそうなコンビニ…
そのレジには67歳になるオバちゃんが…
腰は痛いわ、動作はノロいわ、老眼で眼はかすむわ…
ところが、そのオバちゃんは潰れそうなコンビニを蘇らせた!
オバちゃんは独特のフレンドリーな接客で店の人気者となり、そのコンビニは人気繁盛店に生まれ変わったのだ!
アメリカでMBAを取得した副店長もビックリ。
決してマニュアルにはないオバちゃんの振る舞いとは?
この本は、そんな事実に基づいた物語。
時おり妻は、目からウロコが落ちるようなことを言う。
少し前、「どこまで食べるのか」を語った時も、そうだった。
「いったい、満腹まで食べてよいものか?」
その問いに対する妻の答えは「否」。
「空腹が収まれば、それで良し」と言うのであった。
なるほど、「満腹」という信号は、幸福感を刺激するその裏では、「警報」でもあろう。
「もうこれ以上入れたら、ヤバイですよ」という身体からの警報。言うなれば、掃除機のコードを引っ張り過ぎた時に現れる「赤いテープ」だ。
人類の永い歴史において、現代ほど頻繁に満腹になるのは稀有のことであろう。それゆえに、満腹感は幸福感と結びついてしまったのかもしれない(適当論)。
しかし現代、「食いすぎ」はあらゆる病の起爆剤となってしまっている。このままあと数百年も「満腹の時代」が続くのであれば、身体と脳が学習して、満腹感と不快感を結び付けるのかもしれない。
しかし、それまでに人類が支払うであろう代償は少なからぬものとなるであろう(すでに支払いは始まっている)。
満腹になろうとするのは、向上心旺盛な人類の性向なのかもしれない。
しかし一方、「最低ラインで良し」とするのも、ワビサビの美学であろう。
「空腹が収まれば良しとする」という姿勢には、そんな美しさが漂っている。
空腹とは何ぞや、満腹とは何ぞや?
面と向かったラーメンに問いかけるのであった…。
(ノビるよ!)
とある駅の構内に、「疑問から始まる学問」という気の利いたフレーズを見かけた。
なるほど、「疑問」という門をくぐった先にあるのが、「学問」という門であろう。
しかし、その先となると道は不確かとなるばかり。その途上には「苦悶」、「煩悶」などの易からざる諸門が立ち塞がる。
この段階に至りてようやく、前門には虎、後門には狼であったことに気付かされざるを得ない。
やむなく、シッポを巻いて逃げ出せば、その見苦しき様は、肛門から吐き出される汚物のごとし。
しかしそのせいか、腹のうちはどこかスッキリとしている。そんな"もん"だ。
そもそも、疑問という門をくぐったのは、何かを疑ったからに他ならない。
そして、散々に門内をのた打ち回ってみた後は、汚物のような、まことにつまらぬモノでも、何かを信じる気にはなっている。
詰まっていたのは他でもない、信じられぬ何かであったのだ。
今朝、珍しく澄み切った空の向こう、遠方に立っする山々の頂きが汚れなき白さに染まっていた。
また美しい季節が巡ってきた。
それはそれで、いい"もん"だ…。