話:鈴木大拙
日本の剣匠たちはしばしば禅の鍛錬法を用いる。
一人の熱心な弟子が剣術を習いたいというのでやってくる。山中の小庵に隠棲していた先師は、やむをえず、それを承知する。ところが、弟子の毎日の仕事は、師を助けて、薪を集め、渓流から水を汲み、材木を割り、火を起し、飯を炊き、室や庭を掃くなど、家事一般の世話をさせられるのである。べつに規則正しく剣術法を教えられることもない。
日数がたつにつれて、若者は不満をおぼえてきた。自分は召使として働くため老先生の許にやってきたわけではなく、剣道の技をおぼえるためにやってきたのだ。そこである日、師の前にでて、不平をいって教えを乞うと、師匠は「うん、それなら」という。
その結果、若者は何一つの仕事も安心の念をもってすることができなくなった。なぜかというに、早朝飯を炊きだすと、師匠が現れて、背後から不意に棒で打ってかかるのだ。庭を掃いていると思っていると、何時何処からともなく、同じように棒が飛んでくる。若者は気が気でない。心の平和をまったく失った。何時も四方に眼を配っていなければならなかった。
かようにして数年たつと、はじめて、棒がどこから飛んでこようとも、これを無事に避けることができるようになった。しかし、師匠はそれでもまだ、彼を許さなかった。
ある日、老師が炉で自分の菜を調理していたのを見て、弟子は好機逸すべからずと考え、大きな棒を取り上げて、師匠の頭上にうちおろした。師匠はおりから、鍋の上に身を屈めて、なかのものを掻き回しているところだったが、弟子の棒は鍋の蓋で受けとめられた。
このとき弟子は、これまで至りえなかった、自分の知らない剣道の極意に対して、はじめて悟りを開いた。彼はそこで本当に師匠の比類なき親切さを味わいえたということである。
ここに禅の鍛錬法の一風変わったところがあるのだ。それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。
事実、いかなることでも皆、真に「伝え難き」もの、すなわち論議を主体とする悟性の限界を超えたものである。それゆえ、禅のモットーは「言葉に頼るな(不立文字)」というのである。
この点において、禅は科学(または科学の名によって行われる一切の事物)とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。
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引用:鈴木大拙『禅と日本文化 』
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