2013年10月25日金曜日

熱田神宮の守る「三種の神器」草薙神剣



今年2013年は

5月に「出雲大社」の大遷宮(60年に一度)

10月に「伊勢神宮」の式年遷宮(20年に一度)

この二大イベントが奇しくも重なった。



そして、さらには「熱田神宮(愛知)」も。

”伊勢の神宮、出雲大社、熱田神宮と、この大きな祭りが重なるのは、最小公倍数でみると「300年に一度」の確率だという(南里空海)”

※熱田神宮の式年祭は「100年ごと」。今年で1,900年。



ところで熱田神宮とは?

華々しく取り上げられる出雲・伊勢にくらべれば、熱田はあまり知られていない。しかし、熱田神宮は「三種の神器」の一つを御霊代(みたましろ)として祀る由緒正しき神社である。

その歴史は『熱田神宮宮記』にこう記されている。「皇位とともに伝わるべき由緒あるものとして、皇嗣が継承される『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』は、三種の神器の一つであり、この神剣を奉斎する熱田神宮の尊貴性は、今日においていささかもかわらない…」



歴代天皇が受け継いできた3つの宝「三種の神器」とは、「草薙神剣」のほか「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」、この3つをことをいう。

現在では、「草薙神剣」は熱田神宮に、「八咫鏡(やたのかがみ)」は伊勢神宮に、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は皇居吹上御所に安置されているという。



「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」とは?

『熱田神宮宮記』はこう続く。

「御父・景行天皇から『形は我子なれど実は神人』との絶対の信任をお受けになっていた『日本武尊(やまとたけるのみこと)』は、弱冠16歳で熊襲(九州)を平らげられ、引き続き蝦夷(東北)征伐の大命を受けられた。

 このとき尊はまず伊勢におもむかれ、叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)にいとまごいされたが、倭姫命はこのとき神慮によって『慎み怠りたまうな』とさとされて、神剣と燧袋(ひうちぶくろ)を尊に授けられ…。

 尊は神剣を奉じ勇んで尾張国(愛知)に入られ、駿河国(静岡)に至られた。時に、この国の賊らが偽って、尊を野に誘い、火を四方に放って失わんとしたが、尊は燧(ひうち)をもって向かい火をつけ、神剣の不思議な力で危難を免れ、賊徒をことごとく薙(な)ぎ滅ぼされたので、これから神剣を『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』と称すようになった」



以後、日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の帰途、伊勢の地(三重)で亡くなる。

尊がつねに身近に置かれていた神剣『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』は、かねて一族が斎場としていた「熱田」に卜(うらな)い定めて奉安された。時は景行天皇43年(西暦113年)。

以来、熱田神宮は”伊勢の神宮に次ぐ格別に尊い神社として、国家鎮護の特別な扱いをうけるようになる。人々は「熱田さま」と呼んで親しみつづけ、はや1,900年ということである。



熱田神宮の宮司、小串和夫氏は言う。

「草薙神剣は、基本的に誰も見ておりません。ご神体ですから、絶対に見ることはできないのです。ご皇室の皇位とともに継承されるべき神器ですから、幾重もの厳重なる箱に納められて、勅封がなされています。それは宮司といえども勝手に解いてはならないのです」

かつて、フランスのシラク大統領(当時)が来日した2000年、親日家の彼は「ご神体の草薙神剣を見せてほしい」と所望したことがあったという。だがもちろん、お見せするわけにはいかなかったという。



また、第二次世界大戦の大混乱期、熱田神宮も空襲で大きな被害を受けた。

小串宮司は言う。「戦時中の記録を見ますと、当時は宮内省と話し合いをして、いよいよ危なくなったときに、ご神体をご避難申し上げなければならくないということで、5月16日にご本宮の裏にある防空壕にお遷りいただきました。その数時間後に熱田神宮は被災して、ほとんどの建物を焼失してしまいましたから、危機一髪、まさにご神慮だと思いました」

戦後にアメリカのGHQが踏み込んできたときにも、ご神体は危ぶまれた。

「GHQが『ご神体を見せろ』と言ってきた時にはどうするか?ということで、ご神体を極秘裏に飛騨(岐阜)水無神社に一時的にお遷しし、状況をみて約一ヶ月してお還りいただきました」


最後に小串宮司は、こう言った。

「三種の神器をご覧になるとすると、陛下しかおいでにならない。われわれは絶対に、ご神体を見たり触れたりすることはありません」






(了)






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ソース:致知2013年11月号
「身を賭して守り抜かれてきたご神体 熱田神宮」

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