話:鈴木大拙
”わび”の真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(富・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、—これが”わび”を本質的に組成するものである。
”わび”はソロー(アメリカの自然詩人)の丸太小屋にも似たわずか二、三畳の小屋に起臥して、裏の畑から摘んだ蔬菜の一皿で満足することであり、静かな春の雨の蕭々たるに耳を傾けることでもある。
それは事実、「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には極めてふさわしい道である。近代西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学大系のたてかたも求めない。
神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少なくともわれわれのうちにある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。たとえいかに「文明化」した人工的な環境に育つようになったとはいえ、私たちの心のなかには、みな自然の生活状態に遠くない原始的単純性に対して、生得の憧憬をもっているように思われる。しばらくでも自然の懐に帰って、直接その鼓動を感じようと欲するのである。
引用:鈴木大拙『禅と日本文化 』
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