話:鈴木大拙
一僧問う。「仏とは何ぞや」
投子、答う。「仏」
僧「道とは何ぞや」
投子「道」
僧「禅とは何ぞや」
投子「禅」
和尚は鸚鵡(おうむ)のごとく答える。彼は谺(こだま)そのものである。
事実、何ぞやというのは”最後の体験事実”だと断言するよりほかに、この僧の心をてらす法はないのである(碧巌集)。
この点を解くために、いま一つの例を挙げよう。
ある僧が、趙州(唐代の禅僧)に尋ねた。「『完全な道』には別に難しいことはないが、ただ”分別を嫌う”といわれています。『無分別』とはどういう意味ですか」
趙州がいった。「天上天下唯我独尊」
僧はまたいった。「それはなお一つの分別ではありませんか」
和尚の答は「咄、この愚かもの奴、分別なんていうものがどこにあるかい」
僧は一語も返せなかった(碧巌集)。
禅匠のいう”分別”とは、事実をそのままに受け取ることではなくて、これを反省して分析して概念となすことによって、知的作用を働かして、結局”循環論法に陥る”ということである。趙州の断定は決定的なもので、遁辞も論争も許さぬ。額面どおりのままでこれを受け取り、それで満足していなければならぬ。
われわれがそれを受け入れ損なった場合には、それはそのままにしておいて、どこか他に己の啓蒙を求めねばならぬ。この僧は趙州が何処にいるかを解することができぬものだから、さらに進んでいったのであった。「それはなお一つの分別ではありませんか」。事実上から見れば、分別は僧の側にあって趙州には無い。ゆえに、「唯我独尊」はここでは「この愚かもの奴」に変わった。
前にもいったように、「一即多、多即一」という句は、まず「一」と「多」という二概念に分析して、両者の間に「即」をおくのではない。ここでは分別を働かしてはならぬ。それはそのまま受け取って、そこに腰を落ち着けねばならぬ。これがここで必要な一切である。
和尚が打ったり、罵ったりするのは、いたずらに憤りを発したり、短気だからではない。それによって弟子たちを陥穽から助け出してやりたいとの老婆心からである。ここではいくら議論しても利益はないし、またいくら言葉の上で説服しようとしても無駄である。
ただ師家だけが、それを論理的な袋小路から転じて、新しい道を開く法を知っている。それゆえに、われらはただ彼に従えばよいのである。彼にしたがって行くことによって、われらはみな「本住地」に戻るのである。
引用:鈴木大拙「禅と日本文化 」
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