2013年10月10日木曜日

玉音放送 [日本のいちばん長い日]





 事件が突発した。

あっという間のできごとであった。

スタジオの外の廊下に、その将校は憑かれたように眼を天井の一角にすえて立っていた。この将校の挙動に不審を感じたのは、東部軍参謀(通信主任)鈴木重豊中佐がいちばんはじめである。

不安感が強く働いて、そばによると、「いまから陛下の放送がはじまるのであるが、警備をいっそうきびしくするように」と鈴木参謀が、その将校に声をかけた。



そのとたんであった、将校は軍刀の柄に手をかけると荒々しく叫んだ。

「終戦の放送をさせてたまるか。奴らをぜんぶ叩ッ斬ってやる」

そしてスタジオに乱入しようとした。鈴木参謀はとびかかった。彼の両腕を後ろからはがいじめにし、必死になって暴れる将校をおさえつけて、大声で憲兵を呼んだ。将校はなお抵抗をやめようとしなかった。

「いいか。不穏なことをさらにするようなら、斬りすててもいい」

わめきながら、その男は連行されていった。それは天皇放送直前の、瞬時にして終わったできごとであった。彼は二十余の部下をひきいていたので、もしそれらがスタジオに乱入していたらと思うと、鈴木中佐は慄然とするものを感じた。



(中略)



大日本帝国の最後は近づいていた。

ほとんどすべての日本国民はラジオの前に集り、そのときのきたるのを待ちつづけた。真ッ赤な太陽は真上にあった。人々は仕事をやめ、日本中のそこかしこで数人ずつがひとかたまりに、黙ってならんで立ち、そしてあたりが急に静かになった。そしてしみじみと静けさを味わっていた。

すべての日本人にとってそれが生きぬいてきた戦争の最後の日であった。



十一時五十五分、東部防衛司令部、横須賀鎮守府司令部の戦況発表をラジオは告げた。

「一、敵艦上機は三波にわかれ、二時間にわたり、主として飛行場、一部交通機関に対し攻撃を加えたり。二、…」

宮中、防空壕内の枢密院会議を一時中断し、首相と顧問官たちは細い回廊に一列にならんだ。天皇は、会議室のとなり控室の御座所にあって、小型ラジオを前にした。みずからの重大放送を聴こうというのである。

ラジオは最後の情報を流した。

「…目下、千葉、茨城の上空に敵機を認めず」

十一時五十九分をまわっていた。つづいて正午の時報がコツ、コツと刻みはじめた。



正午の時報、つづいて和田放送員の緊張した第一声が日本中の沈黙を破った。

「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」

日本人は立った。なかには立たないものもいた。

第八スタジオではしずしずと下村総裁が進みでて、マイクに最敬礼した。誰もそれがおかしいとは思わなかった。いっしょに最敬礼をしたものも何人かあった。

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」

つづいて「君が代」のレコードが流れた。



(中略)



市ケ谷台上には、なお天日のもと機密書類を焼く煙が高く立ち昇っている。それは彼らの過去を葬っているにひとしかった。

すべてが消えて空しくなっていくであろう。しかし、新しい日本国までが死んではならなかった。

「君が代」が終わると、天皇の声が聞こえてきた。



「朕深ク大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク…

 …

 交戦已ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海将兵ノ勇戦、朕カ百僚有司ノ励精、朕カ一億衆庶ノ奉公、各々最善ヲ尽クセル拘ラス、戦局必スシモ好転セス…

 …

 敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ、惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル…

 …

 朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ…

 …

 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ、職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者、及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ、家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ、朕ノ深ク軫念スル所ナリ…

 …

 朕ハ時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス…

 …

 宜シク挙国一家一子相伝ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。

 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」



宮中、防空壕内の枢密顧問官たちは回廊にならんで、放送に耳を傾けていた。十七人の男たちは凝然とし、息を小さくした。洟をすすりあげる音、声をだすまいとしてかえって泣声となるもの、詔書がすすむにつれて戦争が終わったのだという実感が、ひしひしと彼らにせまってきた。やがて平沼枢相が長身の身体を二つに折って慟哭しはじめた。



天皇は、会議室のとなり控室の御座所にあって、椅子に坐ったままご自身のラジオの声に聴入っていた。

うつむいて、身体を固くして…。

侍立する侍従たちがはっとするほどに、その表情には力がなかった。





引用:日本のいちばん長い日(決定版) 運命の八月十五日


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