話:堀越二郎
十九年(1944)の十月下旬の新聞に、
「神鷲の忠烈、万世に燦たり」
「敵艦隊を捕捉し必死必中の体当たり」
という見出しで、神風特別攻撃隊の記事が大きく報じられた。私は、六月マリアナの陥落を知ったとき、日本の敗戦は決定したとは思っていたが、この記事を読んで「ついにここまで追いつめられたか」という感じをいっそう強くした。
その後も新聞などで、特別攻撃隊の敵艦への体当たり攻撃がつぎつぎと報道された。これらの特攻は、強大なアメリカ軍のフィリピン上陸作戦に対する総攻撃防御作戦を命じられた第一線の指揮官が、中央からの指令によらず、追いつめられて決行した用兵法であることが、新聞の報道で察せられた。
あまりにも力のちがう敵と対峙して、退くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。
…
多くの前途ある若者が、けっして帰ることのない体当たり攻撃に出発していく。新聞によれば、彼らは口もとを強く引きしめ、頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗り込んでいったという。
その情景を想像しただけで、胸が一ぱいになって、私は何も書けなくなってしまった。彼らがほほえみながら乗り込んでいった飛行機が零戦だった。ようやく気をとりなおし、この戦いで両親を失った人びとに代わってこの詞(ことば)を書くのだと自分に言いきかせながらペンを取ったが、書きながら涙がこぼれてどうしようもなかった。
そして、「襟を正して応へん」という題をつけて、その短文を書きあげたのは、依頼されてからひと月もたった二十年(1945)の正月休みのことである。私は、手ばなしで特攻隊をたたえる文など書けるはずがなかった。
なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛び込み、なぜ零戦がこんな使い方をされなければならないのか、いつもそのことが心にひっかかっていた。もちろん、当時はそんなことを大っぴらに言えるような時勢ではなかった。しかし、つぎのような一節だけでも強く訴えたかった。
……敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり。われは人智をつくして凡(あら)ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行しつくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あらばわれ何ぞ恐れん……
私がこの言葉に秘めた気持ちは、ひじょうに複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、ほんとうになすべきことをなしていれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。
…
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引用:堀越二郎(※ゼロ戦の生みの親)『零戦 その誕生と栄光の記録 (角川文庫) 』
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