2013年10月23日水曜日

「自身が一本の竹となって竹を描け」



話:鈴木大拙



『中国の神秘思想と近代絵画』の著者ジョージ・ダスイット(Goergecs Duthuit)は禅的神秘思想の精神をよく理解しているようだが、彼に従えばこうである。



「中国の美術家が絵を描くとき大事なことは、思索の集中ということと、その意志の命に応じて一気呵成に手を下すことである。彼らの伝統は、まず仕事を始める前に、その描くものを全体として見る、というより感じるようになっている。

 『考が乱れていては外的状態の奴隷となる』。さらに曰く、『絵を作らんと意図して、熟思し、しかるのち筆を走らせるものは、絵画の術からはなはだしく外れる』。これは一種の自動機械的運動の類であるようにも見える。

 曰く、十年間、竹を描け、そして自身が一本の竹となって竹を描け。このようにして描くとき、竹に関する一切を忘却せよ、と。間違いなき技術はすでに手にはいっているので、いまはただ天来の興に身を任せるのだ」



自分が竹となること、竹を描くとき竹と同一化したことさえ忘れること。これは竹の禅ではなかろうか。これは画家自身のなかにもあれば竹のなかにもあるところの、「精神の律動的(リズミック)な動き」とともに動くことである。彼に必要とするところは、この精神をしっかり把握して、しかもこの事実を意識しないことである。

東洋人はその文明の初期より以来、芸術と宗教の世界でなにか成就せんと欲する場合には、まずこの種の修業に専心するように教えられてきた。禅は事実、つぎの言葉にそれをあらわしている。「一即多、多即一」。これが十二分に理解されたとき創造の天才が生まれる。





引用:鈴木大拙『禅と日本文化

0 件のコメント:

コメントを投稿