2013年10月23日水曜日

ハッキリした丸暗記と、あいまいな意味 [素読]



話:小林秀雄



昔は、その時期(子供がものを覚えるある時期)を狙って”素読”が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。

素読教育を復活することは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とをもっていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを、昔は暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは悪い合理主義ですね。

『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、じつに曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。

そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまず何をおいても、『万葉』の歌と同じような意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

実際問題としてこの方法が困難になったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。

 …







引用:小林秀雄『人間の建設』


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