禅僧・南直哉は「坐禅」について語る。
本当にいいなと思える坐禅はね、人の気配がしないんです。
坐禅をはじめて7〜8年たって、ようやく坐禅のやり方がわかってきて調子にのっていたころ、自分の寺の本堂で坐禅をしていたことがあったんです。そうしたら野良猫が紛れ込んできたんですよ。
なんか来てるなとこちらは思ったわけですが、そのネコは本堂の入り口で踏み込んだ瞬間、私を見てピタッと止まったんですね。そのまま5〜6秒止まって、Uターンして出ていったんですよ。
私はそのとき、「おっ、オレの坐禅のオーラで野良猫がいなくなるところまできたか」と思ったんです(笑)。
しかしその何年か後に、永平寺貫首の宮崎奕保(えきほ)禅師、2008年に108歳で亡くなられた方なんですが、もう坐禅一筋のような方の坐禅を見ましてね。経行(けいひん)っていう歩く坐禅をしているときに、本当は見ちゃいけないんですがたまたま禅師が坐禅している姿が見えたんですよ。
その坐禅は、もう木彫りの人形にしか見えないんですね。人の気配がまったくしない、ただ何かモノがそこに置いてあるだけという感じでした。あれならネコは普通に入ってきて、膝の上をまたいで行っちゃうくらいのことになったと思いますね。
禅問答にも同じような話があるんです。
ある修行僧が坐禅していたら、天女が降りてきて、立派なお坊さんだといって供物をそなえてまた天に帰って行ったという。
それを見ていた猟師が、「お坊さん、お坊さん。いま天女があなたの前に降りてきていましたよ。たいしたものですね」と言ってきた。
それを聞いて坊さんは、「はぁ、天女に見つかるようではまだまだだな…」と言ったという禅問答です。
自分が意識しているとダメだってことです。自意識が働いている状態というのは、動物のように感覚が鋭敏なものにはわかってしまうんでしょうね。私は宮崎禅師のような、ああいう、完全に自分が消えているような坐禅は何度か見たことがあります。
逆に、「これは凄いな」と思うパワフルで力がみなぎっている坐禅も見たことがあって、私も最初のころはそれを目指していたんですね。『坐禅儀』に「須弥山のようにどっしりと坐れ」とあるのは、そういう坐禅かなと思って。
しかしある日、弟子と並んで坐禅をしていたら、それを見ていたある人が「南さんのは凄まじい坐禅ですね」と言うんです。そして弟子のほうを見て「あなたのは置物のような坐禅だ」と言う。
「あ、負けたな」と思いましたね。その弟子は、子どものころから坐禅が好きで、アダ名も子どものころから「お坊さん」。罰としての正座もまったく苦にならなかったという人でね。ところが当時の私は、それこそ「どうやって坐ろう」「これはどんな意味なのか」とかずーっと考えながらやっているわけです。そういうのが出てしまうんですね。
それからさらに10年、15年くらいたって坐禅をしていたら、別の修行僧に「息してるんですか?」と言われたことがあって、「おっ、ひょっとしたら少しは良くなってきたかな」と思いましたけどね(笑)。
引用:禅とハードル
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