2013年10月4日金曜日

玉音放送、前夜 [日本のいちばん長い日]






やがて天皇が三井安彌、戸田両侍従をしたがえて入室した。その軍服姿を眼にしたとき、隣室のすみに立っていた川本秘書官は思わず身体をふるわして、自然に深々と頭を垂れた。

三井、戸田両侍従は廊下側のとびらのそばに立った。隣室にいた録音関係者も最敬礼で壁のむこうに天皇を迎えた。情報局の加藤第一部長、山岸放送課長、放送協会の大橋会長、荒川局長、矢部局長、近藤副部長、長友技師、春名、村上、玉虫の各技術部員たちと、宮内省側の筧庶務課長がこれらの人々であった。

人いきれと鎧戸をとざした熱気で部屋はむれかえるようである。しかし、人々は暑さも忘れ去ってしまうくらい緊張しきっていた。



天皇がきいた。

「声はどの程度でよろしいのか」

下村総裁が普通の声で結構の旨を答えた。荒川局長が、隣室のとびらのすぐそば、下村総裁がよくみえる位置に立っている。一步、下村総裁が天皇の前に進みでて、うやうやしく白手袋の手を前に差し出しながら一礼した。その白手袋が合図で、ただちに荒川局長は技術陣にめくばせした。録音がはじまった。

「朕深ク大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」

天皇は詔書を読まれた。長友、村上が調整、春名、玉虫がカッティング(録音盤に音のミゾを刻み込む)という技術陣万全の配置であった。天皇の低い声は録音盤を刻むカッターの静かな流れのなかに吸収されていった。藤田侍従長、下村総裁から川本秘書官に至るまで、一語一語をかみしめるように聞いていた。天皇のお声のほかに音ひとつなく、外は大山内の森閑たる夜であった。

「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス…」

みの顔に滂沱として涙が流れ、歯をくいしばって嗚咽をたえている。



五分ほどで録音を終わった。

「どんな具合であるか」と天皇はきいた。

筧課長から小声でただされた長友技師は、これも低い声で「技術的には間違いありませんが、数か所お言葉に不明瞭な点がありました」と答えた。

天皇も自分から下村総裁へ向かい、いまの声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むといった。



同じような合図でふたたび録音がはじめられた。

天皇は独特の抑揚で朗読した。少し声が高かったが、緊張されていたのか、文中の接続詞に一字抜けたところがでた。侍立する者は緊張しきって汗ばんだ。万感こもごも胸にせまって眼がしらをまたしても熱くした。彼らばかりではなく、天皇もまた眼に涙をうかべた。二回目の録音が終わったとき、加藤第一部長がはっきりとそれをみとめた。

天皇はまたいった。「もういちど朗読してもよいが」

筧課長が長友技師にさっそくどうかとたずねた。「こんどはよろしいです」と技師は応答した。筧課長はもう一度録音するが準備はいいかとたずねたつもりであったが、長友技師は首尾不首尾はどうかと聞かれたように錯覚したのである。すっかり固くなり上気して、たがいに意味が通じたように思うのであった。



しかし、下村総裁をはじめ、石渡宮相、藤田侍従長も三回目の録音をとめた。天皇の心労、心痛を思えば、それはあまりにも畏れ多いことであったからである。十一時五十分である。こうして降伏への準備の第一歩は無事終了した。

天皇はふたたび入江侍従をしたがえて御文庫に戻った。往きも帰りも天皇は一言も発せず、黙々と、クッションに背をもたせ、眼をつぶっていた。その姿に、入江侍従は心からの痛わしさを感じた。



(つづく)

→ 玉音放送 [日本のいちばん長い日]








引用:決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)


0 件のコメント:

コメントを投稿